昨日ルートははっきりしないと書いたのですけど、
地図を見ていると、おおよその感じはつかめます。 古道をたどる時、詳細な地図を繋げて縮小してみていると、 何となく古道が見えてくるときがあるのです。 現実には途中で切れていたりするのですけど、 推定線を目が補完してくれる時があります。 奈良盆地に残る上・中・下の古道と竹之内街道の延長に当たる横大路は計画的な直線道です。同時代に在ったと思われる丹治道(竹之内街道)も直線であった可能性が高いのではないかと思います。 二上山を越えるために、その部分だけが曲線を描くのではないでしょうか。 もちろん、百舌鳥古墳群と古市古墳群という二つの大古墳群を繋ぐ道として、 古墳時代から道はあるのでしょうけど、飛鳥時代に官道として大々的に改修あるいは付け替えがなされたのだと思います。 それを、丹治道と呼ぶことにします。竹之内街道では、混同してしまいそうですので。 竹之内峠越えの道をいつから竹之内街道と言うのかは分かりませんが、 今回取り上げる部分には、峠部は入らないので棚上げしておくことにします。 難波宮から南下する大道(難波大道)も、やはり直線道ではなかったのかと思います。 地図上にその想定線を引くと、堺市と松原市の境辺りを通過することになります。 場所や詳細は分かりませんが、道路の遺構も発掘によって検出されているようです。 飛鳥時代に改修された官道としての丹治道の起点は、金岡神社の東付近だと思われます。 道は生き物ですから、その主な役目によって形を変えます。 起点終点も時と共に移ろい、高野街道が賑やかになればその地点まで延びたかもしれませんし、 紀州街道が重きを置いた時代なら、その地点まで延長されていたのかも知れません。 または、そこまでの道を街道の続きとして名前を使ったのかもしれません。 そんな在る時代の丹治道を竹之内街道と呼ぶのかも知れません。 今回、竹之内街道をウォーキングしようとして、起点を探していたのですけど、 いろいろな説にめぐり合いました。 しかし、その取り上げている時代がはっきりせず、混乱を招いているように思えました。 明日は、紀州街道との交差点から歩き始め、西熊野街道の交点を通り、飛鳥時代の起点を通って、東高野街道との交点を終点にしようと思います。 by風人 |
by asuka-210
| 2006-05-02 19:07
| 風任せ(日記・雑記)
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